2009年8月28日(金)−29日(土)
           von Frankfurt nach Narita

フランクフルト国際空港
 10日前に一度利用しているだけに、だいたいの様子はわかる(つもりだ)。複雑な立体交差を抜けて第一ターミナルの玄関へ。道幅も狭く、車も混んでおり、ほこりっぽく「田舎くさい」「野暮ったい」という印象。成田の方が明るくきれいで、近代的だ。バスの乗客は、運転手 に あいさつして去っていった。

 この夜はフランクフルトに泊まるA氏は、わたしのチェックインに付き添ってくれる。スカイシャトルの乗り場はすぐに見つかる。それに乗って第2ターミナルへ移動。途中、シェラトンがみえる。「あれが大心配した、件のホテルです」と教えて、笑いあう。「見つからなかったらどうしよう」と真剣に心配したのは、“もう昔”のことだ。

                   【スカイシャトル ウキヘ°テ゛ィアから借用

 第二ターミナルでも、JALカウンターはすぐに見つかる。荷物を預ける前に、きょう購入した土産などをキャリーバッグに収納しなければならない。その作業を一人でやるのは不安なものだ。同行者が周囲に気を配ってくれるのがありがたい。トランクを床に広げて荷物の整理をしている者は他にもいた。でもこれは、ドイツでだから出来ること? イタリアやフランスでやったら、どうなるのだろう?

 チェックイン・カウンターへ。プレミアム・エコノミーのカウンターへ誘導されたので、それを見ていたA氏は「帰路もアップグレードだな」と推測したそうだが、これはハズレだった。予約通りの「51−K」、イチローの三振、滅多にないことという願をかけた席番だ。滅多にないとは皆無ではない。いつかはある。その時はおしまいだ。
 係員に、指定の搭乗ゲートへ至る前にも「ひとつ、『荷物検査場』があるが、そこには決して入ってはいけない」と、とくに注意を受ける。「広い空港だから、3時間前には到着しているのがよい」とD氏がアドバイスしてくれたことを思い出し、どんな構造になっているのだろうとまだ見ぬ世界を想像してみる。

 デイパックと手提げという身軽になったところで、空港駅にとって返し、DBグッズを購入、A氏をフランクフルト市内行きのバスかSバーンに案内するのが当初の予定、予定であったのだ。その“心積もり”はたしかにあったのだった。JL408便の離陸は21:00。まだ19:00前、時間はたっぷりある。
 しかし、しかしである。第一ターミナルへ戻る“気力”は萎えてしまっていた。帰国モードに入ったというべきなのか。
 一連の出国手続がはじまるゲート前で、しばらくとりとめのない話しをして、A氏と別れた。一応この旅の謝意は述べたが、述べきれるものではない。本当にお世話になりました。

 ゲートをくぐり、しばらく歩んで、振り向きもしなかったことに気がつく。振り返ればA氏は、トランクを転がして頭上の案内表示を見ながら、下りエスカレーターに足をのせるところだった。A氏の先の行程の無事を念じた。


 ●出国手続
 ここから先は、「外国からの出国」というまったくの未知の世界に入る。

 まずは税の割り戻し
 C氏は「面倒くさいから、やらなくてもイイんじゃない」と言う。A氏は「何ごとも経験ですから、やってみたらどうですか」と言う。やってみることにした。
 Heidelberg のケーテ・ウォルファルトでもらった用紙を取り出したが、必要事項を記入しなければならない。近くに記入台はない。落ち着いて書ける場所はないかなぁと辺りを見回す。
 窓口から少し離れた通路沿いの椅子に腰掛ける。クレジット・カードの口座にもどしてもらうのが簡単そうなので、カードを取り出しその番号を書き込む。通帳の番号は覚えているが、カード番号はいまだに覚えられないのだ。
 周囲に不審そうな人物はいないかと、一応は用心してみるのだが、わかるものではない。国内と同じ感覚で振る舞ってみる。それは、ここがドイツだから? フランスやイタリアならどうなのだろう? 出国ゲートを抜けたゾーンは、街中とは違うのだろうか。
 記入を終えて申請窓口へ。わたしの前の家族連れは、分厚いレシートの束を提出している。わたしはケーテ・ウォルファルトのレシートだけだから、わずかの金額だ。事前に準備をしておけば額も増えたはずだが、レシートを出してしまうと、行動の記録も失われることになる。だから、時間的余裕があったとしても、すべてを提出することはしなかったであろう。
 係の女性は、ザァーと目を通して、ポン、ポンとはんこを押して、おしまい。

 出国審査は税還付手続の前だったか、後だったか?
 係官が、真剣な目でわたしを見つめ、パスポートの写真に目を落としたので、なぜか「気をつけ」の姿勢をとってしまった。そして、眼鏡を外した。写真は眼鏡をかけてはいないからだ。
 スタンプは、入国スタンプの隣に並んで押された。無造作に押されたものしかみたことがなかったが、こういう丁寧な押し方もあるのだな。
 係官とのやりとりは、いまとなっては覚えていない。ビッテ、ダンケくらいだったと思う。

 つぎは買い物
 財布には25ユーロが残っている。これを使い切るためにお土産のお菓子を物色する。時間はたっぷりあるので、端からはじまで見て回る。8ユーロ30セントのオーストリア製チョコレートを三箱。レジでは書類に居所を書くよう促された。CHIBAと書くべきところ、TOKYOと記した。

 長男の相談(in Potsdam 参照)を持ちかけた弁護士に、ユニークな柄のネクタイを探した。市中で文房具をアレンジしたネクタイを見かけていたので、それを探した。しかし、ブランドものばかりで、めざす柄のものはなかった。
 さらに見て回ったが、日本でも手に入るブランドばかりなので、購入は控える。店員が寄って来ないのが、よくもあり、寂しくもあり。話しかけられても、聞き取れなかったであろうが。

 ショップの周囲を歩き回ったが、別にめずらしいものもなし。搭乗口へ近づくべく歩を進める。広いだけにガラァ〜ンとしている。通路の右側にはバーがある。左側に雑貨屋があったが、やり過ごす。さらに歩くと待合室があり、その奥に荷物検査場が見える。ここが「入ってはならぬ」と注意されたところに違いない。しかし、搭乗ゲート案内に従っていれば、入り込むような場所ではない。海外初心者への念押しだったと理解しよう。出発便がJAL しかないのだろう。

 まだ時間があるし、やり過ごした雑貨屋が気になるので引き返す。
 ドイツ代表のレプリカジャージが気になっていたのだ。日本と比べて安くはないなぁ! どうしよう? 結局、思いとどまる。赤・黒・黄のカラーに違和感はないのだが、協会のエンブレムが気になる。あの鳥がナチスのマークにダブるのだ。
 フランクフルトの絵葉書、ペンダント、ドイツ各地をあしらった折りたたみ笠を購入した。

            この日は写真がないので、窮余の策として傘に登場ねがう。
            ドイツの名所が水彩画風に描かれている。

 前の客は、奥さんが喋り、旦那は後ろに付き従っているようにみえた。JALのゴールドカードで支払っていたが、みなさん、普段からマイルをため、それで航空券を入手したのだろうと想像する。「ティ−ス」と言って搭乗口方向へ去って行った。
 わたしの場合、この旅でどれくらいのマイルがたまるのだろうか。それを有効利用する機会があるのだろうか?

 いよいよ搭乗口だ。機体は往路も乗ったJA731J、緑塗装のエコジェットだ。
 その手前に、この搭乗口専用のような荷物検査場があった。
 腰に巻いたカーディガン、ベルト、レンタル・ケータイを箱に入れ、X線を通す。
 何ごともなく通過して、はずしたものを身につけ、搭乗券を提示して待合室に入る。

 窓側席(51ーK)はトイレに行きにくいと聞いていたので、トイレを済ませておこうと考える。荷物を待合室に放置するわけには行かないので、全部持って、待合室と検査場の間の通路をトイレに向かう。
 気休め程度に排泄したが、ドイツではついにウォシュレットに出会わなかったなぁ。

 待合室に入ろうとすると、呼び止められた。

 「検査の際にケータイ電話を忘ませんでしたか?」と尋ねられる。

 ポシェットを見るが、一台しかない! 「ハイ、籠から取り忘れたようです。」

 「それでは、何か特徴を言ってください」と、にこやかに問う。

 「ウ〜ン。レンタルなので正確なことはわかりませんが、機種はSONYでした。」

 「ハイ、正解です」と言って、渡してくれた。

 これは、金髪・碧眼のJAL男性職員とのやりとり! ケータイを持たされてまだ2ヶ月ちょっと。ケータイへの愛着が足らないのか、それとも帰国モードによる緊張の弛緩か?

 のどの渇きを感じるが、残り10kでは水は買えない。ユーロを上手く使い切ったつもりだったが、甘かった。
 腰をおろして、客を観察する。一人よりも、カップルやグループに目と耳が向く。楽しげに談笑している。でも、わたしはひとり。日本人の中にいて、孤独を感じた

 孤独感を紛らわすために、メール。A氏とC氏に旅の御礼。妻には「これから搭乗する」と送信する。
 A氏の返信「先ほどホテルにチェックインし、ワインも無事に手に入れ(笑)、今、街中を、軽食を求め、散策しているところです。あと一時間もすると離陸ですね! お気をつけて!」

 C氏から「Heidelberg はいかがでしたか。こちらこそ、お世話になり、ありがとうございました。これから12時間あまり、ゆっくりお休みください。アップグレードでしたか? 楽しい旅を。」

 妻から「早く帰ってこーい! 今[日本は午前3時過ぎ]も起きているのだ。でも、もー寝る。帰るのは19:00ころかね? 駅には迎えに行く予定。[昨日]も出勤で疲れた。いまも暑くて寝苦しい。」

 このように、わたしもつながっているのだ! これで、少しは薄らいだ!

 外国においても、コンセントから電気を盗む輩がいる、カメラマンと若い女性だ。カメラの電池と i pod。

搭 乗
 搭乗時刻となる。ファーストクラス、ビジネスクラス、サファイアクラブなど、優先搭乗の案内がある。きょうのわたしは最下級のランク。だが、客の動きが鈍いので、乗り込むことにする。
 機内に入る。まず目についたラックから朝日新聞を取る。国内版とは印刷が違う。ファーストクラス・エリア、ビジネスクラス・エリアを進む。
 エコノミーとの境に立つ客室乗務員が「お帰りなさい!」と迎えてくれた。
 この瞬間、孤独感は吹っ飛んだ。「JALなら、機内に入ればそこは日本」というN氏の言葉に合点がいった。

 51−K。シートピッチが、せ、せまい! わたしが座っても、前の背もたれに膝が当たりそうだ。トイレに行くにはH席とJ席の客に立ってもらわなければ無理だ。こんなに狭いのか!
 念のため、もういちどトイレに行っておこう。近くの乗務員に、いまトイレを使って良いかと尋ねると、良いと言う。最後部のトイレを使った。

           
                【エコノミー席のシート(JALサイトから借用)】

 席に着く。デイパックは自ら収納棚に収める。シートピッチは新幹線普通車よりも狭い。持参のスリッパに履き替えると靴を置くスペースがない。フットレストはあるが、レッグレストはない。背もたれの枕部に頭を固定するしくみはついている。背もたれのポシェットにアイマスクは入っていない。テーブルも小さい。毛布はすでに置いてある。

 一通り観察したところで、H席君がやってきた。若い外国人男性で、家族は52列へ。さあ、Jにはどんな人が?
 おっ、やって来ました。J席さんは中年日本人男性。早速スリッパに履き替える。
 H君が「それ、どこにあるの?」と、甲高い声の日本語で聞く。
 「ないよ」と応えるJさん。
 すかさず、わたしが「どのクラスまで備えてるんでしょうね」と尋ねると、ビジネスまででしょうとJさん。往路はビジネスにアップされたそうな。プレミアム・エコノミーにもありましたとは告げなかった。
 このやりとりで、気軽に話せそうだと察した。

21:00過ぎ、JL408便 いよいよ離陸
 「わたしは何度も乗ってるけれど、離着陸の時は覚悟を決めます」というJさん。

 往路は左に旋回しながら降下し、滑走路を目指した。機体が左に傾くことに多少の不安を感じながらも、着陸の瞬間を目をこらして眺めていた。主翼の上だったからか?
 復路は無事に飛び立ち、右に旋回しながら上昇する。空港が闇の中に浮かんでいる。その光景を撮影しようとカメラを構えたが(これも違反か?)、この時、急に、こんどは恐怖感に襲われた。

 わたしのおしり(座席)の下には何もない、宙に浮かんでる! 初めての感覚、恐怖感!!

      【昼にはこのように見える空港は、夜の闇に橙色に浮かび上がっていた (ウキヘ°テ゛ィアから借用)】

水平飛行に移り、窓のブラインドを下ろすと、平静に戻れた。

 機内アナウンスで日本時間が伝えられると、Jさんは時計の針をなおした。わたしも真似たが、秒針、日付、曜日まで合わせようとして苦労をした。

 飲み物サービスがはじまる。やっとのどの渇きを癒す。水をもう一本所望する。
 機内食は、選択の余地なし。洋食しか残っていない。飲み物はビールをリクエスト。
 機内では酔いやすいと聞いていたのだが、もう帰るだけ。未知の土地でホテルを探す必要もないのだから、飲んでみることにした。スキでない一番搾りが出てきた。
 せわしく食べて、飲んで、最後はコーヒーを避けてお茶。あとは寝るだけだ。

 ここでトイレは避けられない。二人に立ってもらう。壁のラックに絵葉書があるので、そちらのトイレに行く。歩くときに酔いは感じず。離陸前に頻繁に行った割には大量の尿が出た。絵葉書を入手したが、ボーイング777−300ER のものではなかった。エコ機なのだから、独自の絵葉書を用意すればよいものを。航空機内では、他形式の絵葉書を備えておくことは珍しくはないとのこと。

 再び二人を煩わせて、席に着く。
 きょうも目一杯動いたのだから疲れているはずなのに、ビールも飲んだはずなのに、眠くはならない。個人用TVモニター・MAGICシステムで、往路に見残した映画を見る。10日前に扱ったばかりなのに、リモコンの収納場所を忘れてしまっていた。
 映画のあとは、あまり明るくない読書灯のもとで新聞を読む気にもならず、モニターに航路を映し出しておき、現在地を確認していた。あと何`?、あと何時間?

 起きていたのか、眠っていたのか、判然としない。ただ機内温度が下がったので、腰のカーディガンを着用したこと、窓際の壁がとても冷たくなっていたことを朦朧としつつも覚えている。足から胸にかけて毛布を掛けていたので、寒くはなかったが。

 肘掛けに、見慣れない物体がのっている。何だ? どうやら、52列の客の足だ。押し返す。座席の下に置いたのであろうバッグもせり出してくる。押し返そうとしても重い。力の入るポーズをとれないので苦労した。足が臭くなかったのが救いだったか。
 外国のエアライン、とくに Lufthansa は、エコノミーでもシートピッチが広いので、こんなことはないそうだ。

 隣席のJさんは、航空機エンジンの部品を製造する企業にお勤めで、Heidelberg には毎夏、支社員の陣中見舞いにやってくるのだという。二日前、Heidelberg のレストランで遭遇した日本人グループの一員であったこと、その夜は同じクラウンプラザに泊まったことがわかる。

 わたしはJさんに、今回の旅で訪れた街の話しをした。

         【ベルリン】                        【ドレスデン】


       【ローテンブルグ】                    【ハイデルベルグ】

 J さんは、いろいろな話しをしてくださった。
 毎年ドイツに出張する。当初は奥さんから買い物のリクエストがあったが、回を重ねるうちにそれもなくなり、さみしくなったとか。
 先月には、奥さんとイタリアを旅行しており、一ヶ月のうちに二度もヨーロッパにやって来た。時差対策はとくに立てていないが、今回はできるだけ寝ないようにしているとか。
 JALの経営危機が言われているけれど、乗るならやっぱり“ナショナル・フラッグ・キャリア”ですねとか。

 でも興味を惹いたのは、やはりビジネスの話だった。
 J さんとこの製品は、アメリカで航空機エンジンに組み込まれ、それがボーイング社の旅客機に取り付けられたり、ヨーロッパに渡ってエアバスに取り付けられるとか。
 ヨーロッパに工場を作るとしたら、国民性からいってドイツが第一候補だとか。
 日本国憲法の解釈に明け暮れ、海外に目を向けることの少ないわたしにとって、経済のグローバル化を実感した内容だった。こういうビジネスに関する知識・情報が圧倒的に欠けていることがわかった。
 あとは、日本の航空機産業界の話。ミサイル防衛(MD)構想の話、SM3やPACK3の問題点を確認できた。財界は武器輸出三原則の緩和を要求しているが、緩和してもすぐに売れるわけではない。売り込みが大変なんだという見通しも新鮮だった。
 10日もドイツを周遊しながら、最も印象に残ったのが、帰りのフライトでの日本人の話というのは、いささか皮肉ではある。


 日本時間の29日(土)昼過ぎ、朝食という感じで着陸前の食事が供された。
 今回も選択の余地なし。残っているのは洋食のみ。
 J さんは「わたしは卵は嫌いなんだけど、仕方がないですな」と言い、パクパク食べる。わたしも同感だが、モゾモゾと飲み物で流し込む。
 着陸が近いので、食器の回収も早い。「せわしないですな。追い立てられているようだ」「そのとおりです」と、うなずき合う。

● 着 陸
 ほどなくして、着陸態勢に入る。茶色のドイツに対して緑の日本だ。利根川らしき川が見えるが、成田市街はわからない。千葉県地図は頭に入っているが、成田空港の位置を押さえていないことに気がついた。
 旋回しながら高度を下げる。機体が傾くのは不安なものだ。やがて、ストーンと着陸。15:00過ぎ。
 「普通は、ダイヤグラムのようにガクッ、ガクッという感じで高度を下げるのが、この機はなめらかに降下しました。旋回中はエンジンの推力を相当絞っていました。着地後も逆噴射は一瞬だったでしょう。さすがエコ・ジェットです」とJ さんが解説してくれた。

 降り際に、J さんが「これも何かの縁です。何かありましたら」と、名刺を差し出す。わたしもあわてて手製の名刺を引っ張り出して渡す。J さんが「あっ」と驚く。何のことがわからなかったが、よく見るとビックリ! 四文字の氏名のうち、一文字だけ異なり、他の三文字は同じだった。つまり、
  J さんは○△道□、わたしは○△和□ というわけ。 さらに、J さんは社長さんだった!

 Jさんとは、座席で別れた。52列の家族は、まだ残っていた。乗機の際とは逆に、ガラーンとしたPY席、B席、F席を通り、最前部の出口から降機。


成田国際空港
 客室乗務員に見送られ、地上職員に出迎えられると、わたしにとっての初めての入国手続がはじまる。これも未知の世界だったが、おおむねスムーズに運んだ。

● 検 疫
                    
                    【成田国際空港サイトから借用、以下同じ】
 係官のいるカウンターの手前10bくらいの所に、マスクが置いてあり、カウンターまでの間着用せよと掲示がある。しかし無視。女性係官から「異常はないか」と聞かれたので「なし」と答える。
 春先、新型インフルエンザ騒動の時期には、さぞかし大変だったことだろう。

● 入国審査
                   
 係官と何か言葉を交わしたかなぁ? パスポートの出国時のスタンプの隣にスタンプが押された。

● 手荷物受け取り
                   
 エコノミー客の手荷物は最後に出て来るはず。朝食後トイレに行っていないので、便意をも催している。キャリーバッグをもってトイレに入るのは至難の業である。ならば、いま済ませるしかない。手荷物はグルグル回って、わたしを待っていてくれるはずだ。JL408便のターンテーブルを確認して、トイレへ。
 TBへ戻って、手荷物を待ちながら、旅客を観察する。手荷物を預けていないJさんの姿はない。
 手荷物を手にしたツアー客が、別れのあいさつを交わしている。涙を拭いている人がいる。ええっ、添乗員さんだよ! 良いツアーだったんだろうなぁ。今回のような通訳ガイド付きの・至れり尽くせりの旅行なんて滅多にないのだから、いずれはツアーのお世話になるのだろう。 
 ほどなくして、わたしのキャリーバッグが競り上がってきた。滑り落ちて、壁にぶつかるしくみではないので、安心してとりあげる。タグを照合することもなく、税関へ向かう。

● 税関検査
                   
 カウンターはどこも空いていたが、ハズレの待ち客のいないカウンターを目指した。ところが向かい側からやって来た5〜6個のバッグを持った白人に先に入られてしまった。あげく、係官が交代するとあって、2〜3分は待たされた。件の白人は、予想に反してフリーパス。いよいよ、わたしだ。
 「携帯品・別送品申告書」の提出を求められる。水平飛行に移ってまもなく、乗務員が見せて歩いていたのがその用紙だったのだ。「すべてのお客様に、提出していただいています」というので、近くの机に座って「申告するものはない」と記入する。あとで、別送品があったことに気がつくのだ。
 さっきのカウンターに戻って、係官に申告書を手渡して、おしまい。これで日本国に戻れた。
 到着ロビーに顔を出す。何年か前、長男がNZから帰国するのを出迎えた場所だ。だが、わたしに出迎えはいない。
 リムジンバスのカウンターに、Jさんらしき姿がちらりと見えた。

ターミナルビル
 まずは、レンタル・ケータイの返却。エスカレーター脇に立つスタッフに、ブースの在処を尋ねると、地下だという。ブースで、スタッフの指示に従って、ICチップをレンタル機からはずし、自己のケータイに装着する。レンタル機のメモリーを空にする。これでおしまい。

 つぎは、キャリーバッグを宅配業者に預ける。クレジットカードのサービスで、帰国の際手荷物一個を無料で自宅へ届けてくれる。そのカウンターの在処を把握しておかなかった。最も確実なのは、カード会社のブースで聞くことだ。三階へ上がる、そこは出発ロビー。出発時に立ち寄ったところだ。聞けば、到着ロビーの両端に二箇所あるという。
 最初に行ったところは、クロネコヤマト。ANAと提携している。JALの客を扱うかは定かではないので、反対側へ向かう。本当にハズレにあった。JALと提携した福山通運だ。カードと搭乗券を提示して、手続は簡単に終わった。

JRと路線バスで帰宅
 身軽になって、第二ターミナル駅へ。旅が終わるさびしさよりも、家へ帰れる安堵感が勝る。Suicaで改札機を通る。久しぶりの改札口だ。
 見慣れた、乗り慣れたE217系がやって来た。1603発車。混雑を心配して附属編成へ足を運んだが、乗客はまばらで、冷房は寒いほどだ。

   

 車中から、午前中に帰国したはずのD氏と、出発時に万一の場合を託した従弟に、そして妻にも「無事帰国」のメールを打つ。
 妻からは「食料品買い出しがてら迎えに行く」との返事が来た。帰宅前にヨーカドーへは行きたくないので、最寄り駅から路線バスで帰ると返信する。

 千葉で内房線に乗り換える。1656という退勤時なのに5両編成を使っている。結構な混雑だ。
 1800前に帰宅。ネルトリンゲンからの絵葉書は配達されていたが、ベルリンからの小包はまだ届いていなかった。

 至れり尽くせりのドイツの旅、行程上のトラブルはなく、無事に終わった。

 誘ってくれたうえ、ロマンティック街道から空港までエスコートしてくれたAさん、Bさん。
 Aさん、あなたの運転の技術とセンスは特筆ものです。Bさん、あなたの説明でドイツ料理を楽しめました。
 現地のCさん、もっといろいろと案内してほしかったけど、いつもながらのペースで生活しているようで、何よりでした。
 Dさん、わたしの希望を組み込んだ行程を立ててくださり、ありがとうございました。いろいろ教えていただき、こんどは一人ででも行けそうです。

 そのほかのお世話になったみなさん、ありがとう!

 この旅行記をここまで読んでくださったみなさん、お疲れさまでした。 (完)
 (2010.08.18 一年前の出発の日)